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世界の自称独立国家⑦ 日本のアニメにも登場した、ワイ公国

  • 5月24日
  • 読了時間: 5分

建国:2004年11月15日(ワイの日) / 場所:オーストラリア・シドニー近郊モスマン区 / 現元首:ポール・アシュトン・デルプラ(ポール1世)

1993年、シドニー郊外モスマンに住む芸術家ポール・デルプラは、地元の行政に一通の申請書を提出した。

内容はシンプルだった。「家の敷地に続く未舗装道路を、車が通れるよう整備する許可をください」。

翌年も、翌々年も、さらにその翌年も、彼は申請を続けた。拒否され、訂正を求められ、再申請し、また却下された。行政はミスを認め、やり直しを約束し、そしてまた遅延した。気がつけば10年が経っていた。

2004年11月、デルプラは決断した。もうこの自治体のルールに従う必要はない。ならば——独立するしかない。

こうして生まれたのがワイ公国(Principality of Wy)だ。原因は革命でも、理念でも、抗議でもなく、「車道一本」だった。



44年前に描いた「王子の肖像」

話の起点は、実は1960年まで遡る。

18歳のポール・デルプラは、「ワイの王子(Prince of Wy)」と題した自画像を描いた。深紅のカーテンを背景に、銀の杖を手に持ち、礼装マントを羽織った若者が、正面を向いて立っている。「ワイ(Wy)」という名は、近くにある「ワイアージン自然保護区(Wyargine Reserve)」から取った。

それは一枚の絵に過ぎなかった。しかし44年後、そのセルフポートレートは「建国の肖像画」として、本物の国家の正統性を担うことになる。

この長い伏線——10代の芸術家が半ば冗談で描いたアイデンティティが、50代になって「本物の公国」として現実化する——こそが、ワイ公国の物語を他のミクロネーションとはひと味違うものにしている。


11年越しの申請と、行政の迷走

1993年、デルプラ一家は「バラン・アベニュー22B番地」の自宅へのアクセス道路として、近くの未舗装道路「スタントン・ロード」の使用許可を申請した。計画は当初、承認される方向で進んでいた。

ところが1998年、モスマン自治体はスタントン・ロードを「保護対象の茂み地帯」として再区分した。許可は白紙に戻り、一家は事実上「行き止まりの家」に閉じ込められた。デルプラはのちにこう語っている。「私たちはモスマンから物理的に切り離されてしまった。住所不定になる恐怖すら感じた。まるでバルモラルのジプシーだ」。

その後も申請と却下のサイクルは続いた。行政はミスを認めながら是正しない。法的手続きは遅延する。11年が過ぎた頃、デルプラはオーストラリアに存在する別のミクロネーション「ハット・リバー公国(Hutt River Province)」の建国経緯を調べ始めた。あの農家も、政府の農業政策に対抗するために独立宣言をした——同じ手が使えるかもしれない。


「ワイの日」——市庁舎での独立宣言

2004年11月15日、ポール・デルプラは礼装を身に纏い、正式な儀礼用マントと杖を携えて、モスマン市庁舎に現れた。

報道陣と市民が見守る中、彼はモスマン市長に対して「独立宣言書(Decree of Secession)」を手渡した。市長もまた礼装を着用し、公式の場としてこれを受理した——もちろん法的な意味での承認ではないが、少なくとも儀礼としての誠意ある対応をした。

宣言文にはこう書かれていた。

「モスマン市議会が我が家族の合法的な道路へのアクセスをほぼ全会一致で拒否したことを受け、私はやむなく我が土地をモスマン自治体から切り離し、宣言する——ワイ公国の誕生を」

こうして「ワイの日(Wy Day)」が制定された。毎年11月15日がこの国の建国記念日となった。


「芸術家の公国」という国のかたち

ワイ公国を特徴づけるのは、その「芸術家らしい」国家運営だ。

ポール・デルプラは、1988年からシドニーの名門美術学校「ジュリアン・アシュトン・アート・スクール」の校長を務める人物だ。彼の作品は州立・市立・大学の各ギャラリーに所蔵され、多数の個人コレクターにも渡っている。「王子」が本物の芸術家であることで、ワイ公国は「抗議のための自称国家」という次元を超え、アートとしての側面を持つようになった。

公国は独自の美術賞「アーシー・ワイルド美術賞(Archy Wyld Art Prize)」を設立し、地域の芸術家を支援している。ジョルジュ・ハイツには「大使館」と位置づけられたギャラリーがあり、新進芸術家の展覧会が開催される。公式ウェブサイトには芸術家の評論や作品評が掲載され、これが一つの文化発信拠点として機能している。

公国のモットーは「Ex Munic(自治体から)」。行政に抗して生まれた国が、芸術によって独自のアイデンティティを獲得していく逆説的な過程が、ここにある。


20年間の法廷闘争、そして敗訴

しかし現実の問題——車道——は解決しなかった。

2006年にはモスマン自治体がミスを認め、是正を約束したが、それでも状況は変わらなかった。2012年、デルプラ一家はついにモスマン自治体を法廷に訴えた。しかし2013年7月、裁判所は一家の申し立てを棄却した。建国から実に9年、最初の申請から20年の歳月をかけた「車道争奪戦」は、法的には敗北に終わった。

しかしデルプラは公国の解散を宣言しなかった。車道の問題とは別に、ワイ公国はすでにそれ自体として存在し続ける理由を持っていたからだ。


アニメにも登場した公国

意外なところで、ワイ公国の名前は世界に広まっている。

日本のアニメ「ヘタリア Axis Powers」では、シーランド公国をはじめとする各国の擬人化キャラクターが登場するが、そこにワイ公国も含まれている。ドイツ、イギリス、ロシアといった大国と同じ舞台に、シドニー近郊の「車道問題から生まれた公国」が並んでいる——それだけでもう、十分に面白い話だと思う。

2010年には、マッコーリー大学が主催したオーストラリア初のミクロネーション首脳会議「ポリネーション(PoliNation)」に参加。世界各地のミクロネーション代表と意見交換を行い、学術的な文脈でその存在を示した。


「行き止まり」から生まれた国の意味

ワイ公国の建国動機は、どこよりも日常的だ。

政治思想でも、芸術的野望でも、自由への渇望でもなく、「家の前に道路を作ってほしかっただけ」。それが拒絶されたとき、一人の芸術家は44年前に描いた自画像を思い出し、王子の衣装を引っ張り出して、市庁舎に向かった。

その行動は滑稽に見えるかもしれない。しかし、行政という巨大な機構の前で個人が感じる無力感——窓口をたらい回しにされ、何年も待たされ、ルールを変えられ、それでも誰も責任を取らない——を笑える人が、どれだけいるだろうか。

デルプラが選んだのは、怒ることでも諦めることでもなく、「国を作ること」だった。その手段はユーモラスだが、その根底にある感情は真剣だ。

ワイ公国は今日も存在する。車道はまだない。王子は絵を描き続けている。

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